やさしいから、だ

コミックビーム連載の安永知澄の処女作「やさしいからだ」は、全3巻の連作短編集である。登場する人物が次の話に登場する人物とかすかに関わりあい、リレーバトンのように紡がれる各話のエピソードは鈍い痛みで満ちている。少女のあらぬ妄想や、母親の忘れたい匂い、過去の言動の罪悪感だったりするそれらを、ただ受け入れる者、乗り越える者、あるいは侵食されてしまう者、彼らの結末は一様ではないが、ともすればストーリーとしての成立さえ危ういほどの繊細な負の感情を、ときに生々しくさえ感じられるほどの活きた台詞まわしと、洞察力に富んだ「関係性」の描写によって作者は巧みに表現する。学生時代、クラスの輪から浮いている同級生の孤高さに憧れ、仕草や好きなものを真似することで、普段は友人と団子状態だった自分が一つ高みに昇ったように陥る錯覚。絵画の時間にお互いの顔を描くペアが見つからなくて、美化した自画像を提出する特に親しくもなかった友人との記憶。運動会の徒競走のプレッシャーに耐えられず、トイレで泣きながら嘔吐した便器の白さ。本来であれば、時間の経過とともに忘却されてもおかしくなかった些細な事柄、思い出と呼べるほど甘くはなく、トラウマと呼べるほどはっきりとした輪郭を保っていない霞のようなエピソードの数々。しかしそれらは誰にとっても何かしら身に覚えがあり、どこかノスタルジーすら想起させる懐かしい鈍痛なのかもしれない。ページを読み進めるたびに、過ぎ去った昔の風景やいつかの知った顔がグルグルと頭の中を駆けめぐる。まるで卒業アルバムを開いたような懐かしさと、それに伴う痛々しさにも似て。最終話を読み終えるとき、記憶の旅から帰途したある種の爽快感さえ覚えたのはきっと、私だけの偶然ではないだろう。
「他者との関わりの中にしか喜びも苦しみもないと、いつ知ったのかは覚えていません」
最終巻のあとがきを飾る冒頭のこの一文は、作品の最もファンダメンタルな部分を物語っているように思う。他人と関係することで、初めて感情は産声を上げるのだということ。誰かとつながらなければ、喜びや悲しみなんて生まれやしない。なぜなら、感情とは誰かに向けられるために在るのだから。最終話、外気に触れてしまえば死に至る危険さえある近未来の世界で、防護膜に包まれた生活を強制されながらも、普遍的に想い合う思春期の少年と少女が、生命の危険を賭してもお互いの身体に触れあおうとする。少女の柔らかい直の皮膚に伸びる少年の指先、からだとからだが触れ合い、溶け合うように営まれる行為。ときに言葉よりも多くのメッセージを交わすそれは、この物語の末尾を飾るにふさわしいコミュニケーションの表現なのかもしれない。私は今まで誰かと関係をつくることに臆病で、その弱さを乗り越えるために人と関わることの意味を人一倍模索していたつもりだったが、どうもそれはあまり正しくない。どうやら私は自分の臆病さを弱さと呼ぶ何かに抗いたくて、関わる意味を探していたことに気づいた。作者のいうように、きっと私も合理的に生きられない側の人間だ。だからこの漫画を楽しめる。